人間理解は命がけ?

 

先日、家庭医療学講座の先生とお話する機会がありました。

先生は、「医療を行う上で共感する力は大切。

患者さんを深く理解し、ニーズに合った医療をするのが家庭医療だ!」

と熱く私に語ってくれました。

この会話をきっかけに、人間理解について考えを巡らせてみたので、

今回のテーマにしようと思います。

 

「人の気持ちがわかるお医者さんになってね」

こんな言葉をかけられることがあります。

私は物心ついた時から、共感できる心を持ちたい、

そしてそのために、いろんな経験を積みたいと考えてきました。

何か自分にうまくいかなかったことがあったとき、辛いことがあったとき、

同じ経験をした人の痛みがわかるようになったかもしれない、

と自分をなぐさめたこともありました。

あらゆる経験には「人間理解」をキーワードにすれば意味がある…

いつしかそのように言い聞かせ、自分を奮い立たせるようになっていました。  

 

失敗してもいいから、興味を持ったことはなんでも挑戦しよう、

勉強もサークルもバイトも、とにかく今やれることは全部経験しよう。

そんな考えのもと、体力が続くぎりぎりまで動きながらもがいていた時に、

河合隼雄先生が書かれた心理学の本と出会い、私は衝撃を受けます。

そこにはこう書いてありました。

「人間理解は命がけの仕事である」

 

こう続きます。

「うっかり他人のことを真に理解しようとしだすと、

自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。

逆に自分の根っこをぐらつかせずに

他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである」

その通り、私は当時人と関わる中で自分がぐらぐらと揺れ動いていました。

日々の自分との葛藤の原因はここにありました。 

 

人間理解とは何のためにするものなのでしょう。

もちろん答えは人によってさまざまだと思いますが、

医療者にとっての人間理解は、

相手と同じように感じ考え共感することにとどまらず、

相手のニーズを把握するということなのだと思います。

自己満足にならないためにも、人間理解の限界を知り、

揺らがない自分を持ち、相手が求めるものを把握する。

これって大切なことなんじゃないかなって思います。

(言うだけは簡単ですが。)

 

そして家庭医療の分野だけでなく、

ニーズに合ったものを提供するということは、

どの分野においても求められることなのだと思います。

そのためには人間理解が必要、

つまり命がけで自分と向き合うことが必要なのかもしれません。

 

河合先生は最後にこう書いています。

「せっかく生まれたのだから、死ぬまでには、

ときどき命がけのことをやってみないと面白くないのでは」

…毎日じゃ身が持ちませんが、

一度しかない人生、たまには命をかけてみてもよいのかもしれません。